ヒルトン姉妹

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デイジー・ヒルトンとヴァイオレット・ヒルトン ー 通称、ヒルトン姉妹は1908年2月5日、イングランドのサセックス東部で生まれた。しかし彼女らは産まれて間もなく、母ケイトの働いていたバーの主人とその産婆、メアリー・ヒルトンのもとに売り渡された。二人は尻と腰が癒着した形で骨盤で繋がっており(殿結合体)、血管は共有していたが、そのほかの臓器は別々に持っていたという。この驚くべき美貌を備えた双子を買い取ったメアリー・ヒルトンは、彼女らを見世物として全米、そしてヨーロッパに見せて回った。メアリーは自らを彼女らに「ルーおばさん」と呼ばせ、当時の夫を「旦那様」と呼ばせるよう命じた。

そのおかげで一儲けしたメアリーは、今度は姉妹を一旦公の場から遠ざけ、当時の夫(第六番目の夫)であるマイアー・マイヤース氏の所有する部屋(テキサス州サン・アントニオ)に住まわせた。そこで姉妹を更に有名にするため、歌やダンス、ヴァイオリン、クラリネット、サキソフォーンの徹底的な訓練を積ませた。1930年代のことである。

現在ではヒルトン姉妹が幼少時、どんな人生を送っていたのかは、ほとんど知られていない(姉妹がショーに出演した際には、『True Life』なる彼女らの生い立ちを描いたパンフレットが配られたが、それは嘘だらけの代物だった)。しかし1942年、彼女らが出版した自叙伝によれば、義母メアリーの目まぐるしく変わる夫はいずれも暴力的で、虐待を受けていたとされている(『Very Strange People』の著者ダニエル・P・マニックス氏は、彼女らの幼少の頃をとても幸福で、周囲に恵まれた人生であった、と記しているが、一方、『Freaks』の著者ボグダンは、その人生を不幸なものだったと記している。おそらく実際はそのどちらでもない、中間だったのではないか)。

その後義母のメアリーが死ぬと、義父と彼の実娘は二人をそのまま引き取って育てた。しかし1931年、ヒルトン姉妹は彼らの支配から逃れるべく、マネージメント方法を巡って訴訟を起こし、勝訴したのだった。こうして姉妹はついに"独立"した人生を獲得した。しかしその後も二人はしばらくの間、生活資金を得るため、彼女らが嫌悪していたサイドショーに出演し続け、「ヒルトン姉妹のショー」としてしばらくの間、興行を続けた。

1932年、ヒルトン姉妹は一躍その名を知らしめることになる。その年、奇形者ばかりを集めて撮影されたトッド・ブラウニング監督の映画、『フリークス』に出演したのである。その中で二人は自身そのままの役を演じ、結合性双生児は愛に満ちた人生を送ることが出来るか?という疑問に、あたかも身をもって答えたのだった。ではその疑問に対する答えはいかなるものだったのか。ヒルトン姉妹の場合、おそらくその答えは"YES"であると言えよう。彼女らは当時、恋多き双子としてその名を馳せ、時には恋敵に打ち勝つため、人一倍の貪欲さを見せたと言われている。

当時、多くの記者たちは、彼女らに対し率直に誰もが抱く、興味深い疑問を彼女らにぶつけた。それは例えば「片方が恋人と愛しあっている際、片方はどうしているのか?」といった問いである。ヒルトン姉妹はこの問いにもきっぱりと答えている。彼女らは答えて曰く、「共に、片方が何かに興じているとき、それを全く無視するよう精神的な意味において互いを"分離"する技術を自然と身につけた」という(またその技術について、ヒルトン姉妹は同時代に生きたかの有名な奇術師フーディーニに魔法をかけられたおかげよ、と話している)。

またデイジーはある日、髪を金髪に染めたりもした。それは彼女が彼にヴァイオレットと間違えて呼ばれるのを何より嫌っていたからである。しかし、彼女らの身近な者たちの証言によれば、二人は間違いなく互いの感覚を共有しており、彼女らが話したような精神的分離は決してあり得そうもない、と話している(確かに、映画『フリークス』の中ではヴァイオレットが男とキスする間、隣でこっそりと恍惚の表情を浮かべているデイジーの姿がユーモラスに描かれている)。

ヒルトン姉妹はそれぞれ別々の夫と結婚した。しかし二人とも決して子供をもうけることはなく、結婚はいずれも短い間に破局した。ヴァイオレットは1936年、テキサスのジェームス・ウォーカーなる男性と結婚したが間もなく破局。またデイジーも1941年、ダンサーのハルロド・エステップと結婚したが、結婚から2週間で夫は家から逃げ出し、束の間の結婚生活はあえなく破局している。

やがてヒルトン姉妹から世間の興味が消えうせた頃、彼女らはマイアミに移住し、「ヒルトンシスターズ・スナックバー」なるハンバーガーショップを開店した。しかしビジネスは失敗した。独立を勝ち取り、その後自由を獲得したかに見えた彼女たちは、皮肉にも、その引き換えに「見世物一のスター」の座として得ていた破格の収入(絶頂期、彼女らは週5千ドルを稼いでいたという)を失うことになったのである。そして1950年になると、二人は再びハリウッドへと戻り、『Chained of Life』なる映画に出演し、悲惨なプロダクション状況にも関わらず、彼女たちは往年の美声を響かせた。

やがて1960年代になると、再び全国興行の旅に出た。しかしそれも長くは続かず、その姿が最後に見られたのはノース・カロライナ州のドライブイン・シアターである。ツアーはその後も日程が決まっていたが、彼女らはもはやその興行に出るための資金さえもなかったと言われる。二人はその後、金欠から食品販売店でレジ係として働くことになった(片方がレジを打ち、片方は食品を袋に詰めた)。親切な店の主人はショー用に作られた服しか持たない彼女らのため、二人の姿に合わせた専用のコスチュームを用意した。

しかし1969年1月6日、二人は数日前から仕事場に姿を見せなくなり、心配した主人は警察に通報した。そして警察が部屋に入ったとき、二人は既に死亡していた。死因は当時猛威をふるった香港インフルエンザであったという。その後二人が出演した『Chained of Life』の続編『Torn by a Knife』なる作品も製作されたが、この作品は世に出ることなく終わった。また1997年、二人の人生をテーマにした『Side Show』というミュージカル作品が上映されている。

「人が私たちのことをじろじろ見ようとも別に気にはなりません。もう慣れていますし、今までずっとこの姿でしたから」どちらが語ったのかは、不明である。