クラオ"ザ・チンパンジー・ガール"と呼ばれたこの少女は、1872年、ラオスで生まれた。1883年カール・ボックス博士に発見され、その詳細はネイチャー誌(1883/5/12)に次のように伝えられた。「彼女の全身は柔らかく真っすぐな黒髪で覆われている。その顎は特に変わっており、丁度チンパンジーのように唇を押し出すことが出来る。何かをうっとうしがるとき、彼女の上下の口は非常に変わった動きをする。また彼女の足は物を器用に掴むことが可能で、地面に落ちたものを拾い上げることも出来る。」
クラオはその後、まずロンドンへと"運ばれ"、そこで人類と猿人類をつなぐ"ミッシング・リンク"だとして世間の注目を集めた。しかし彼女を検査した医師は、彼女が全身多毛症の極例であると診断し、全身に毛が生えているのはクラオのみで、彼女の家族(母親は王宮に仕える人物だった)にそうした症状を持つ者がいないことを正確に記録した。クラオはロンドンを離れると、ニューヨークへ運ばれ、1926年に死ぬまで、そこで"チンパンジーと人の間の子"といった喧伝され、バーナムとベイリーのサイドショーに出演し続けた。
伝えられるところによれば、普段の彼女は極めて知的な人物であり、ラオスを離れたのちは、英語とフランス語、ドイツ語をすぐに習得したという。