ラレー・ビジャニ、ラダン・ビジャニ

Bijani Sisters

ラレー・ビジャニとラダン・ビジャニ姉妹は、1974年1月にイラン南西部の農家で生まれた。当時、イラン革命が勃発し、政情不安であったため、1979年、彼女らは医師の手引きによって、アメリカへと渡った。その後、彼女らは帰国し、両親と再会した。両親は親権を訴えたが、姉妹は彼女らを引き取っていたアリレザ・サファイアン医師と共に暮らすことを選んだ。

二人は頭部で繋がっていながら、性格は個性豊かだった。しかしそのせいで日常生活の選択は常に困難を極めた。特に将来の夢について、ラレーはジャーナリストに、ラダンは法律家を目指していたため、何を勉強するかでもめたという。しかし最終的には、ラダンの夢を優先し、四年間、テヘラン大学で法律の勉強を行った。二人は趣味も異にしていた。ラレーは、コンピューター・ゲームを好み、ラダンはプログラミングを好んだ。またラダンの弁によれば、ラダンはおしゃべり好きで、ラレーは内向的であったという。

1996年、二人はドイツへと渡り、そこで分離手術を受ける準備をはじめた。しかし医師は二人を検査したのち、手術を拒否した。何故ならば身体の結合状態が複雑であり、分離はリスクが高すぎると判断されたためである。そして2002年、二人は今度はシンガポールへと渡り、医師のキース・ゴーと面会した。キースはかつてネパールに生まれた頭部で結合した結合双生児の分離手術に成功した実績を持つ、言わば分離のエキスパートだった。しかしそこでも、キースはやはり二人の分離は非常に難しく、手術は失敗する可能性が高いため、手術を中止することを二人に薦めたが、二人の決心は固く、あくまで手術の実施を望んだ。

そして2003年7月6日、世界中のメディアが見守るなか、シンガポールのラッフルズ病院で手術は行われた。手術に際しては28人の医師と、100人の看護士が手配され、また二人の為に作られた椅子型の特殊な手術台が用意された。

手術はそれから一日余り続き、翌8日の午後13:30にはひとまず分離手術が終了した。しかし、分離と共に、二人は昏睡状態に陥り、14:30にラダンが、16:00にラレーがそのまま死亡した。二人の死因は、頭部で幾つもの血管を共有していたため手術は困難を極め、血管の再縫合中、多量の失血により死亡したというものだった。二人の遺体は別々の棺に収められてイランへと運ばれ、現在は隣り合った別々の墓に眠っている。