結合双生児の歴史を語るとき、チャン・バンカーとエン・バンカー兄弟の名を無視することはできない。何故なら、彼らはいまでもしばしば使われる結合双生児の別名"シャム双生児"の語源となった双子だからである(シャム[SIAM]とは彼らが生まれたタイ王国の旧名)。1811年5月11日、タイのメコン川流域の村で、中国人の父親、そして中国人とタイ人のハーフの母親のもとに生まれた彼らは、胸骨付近の軟骨組織で繋がる剣状突起結合体の双子として生まれた(また二人はそうした出自から、村では「中国人の双子」として呼ばれていた)。
二人の肝臓は融合していたが、そのほかの器官は完全に独立していた。そのため二人は接合点を伸ばし、お互いに身体の距離をとることが出来たため - 多くの剣状突起結合体の双子がそうしなければならないように - 顔を向き合わせ続けて生きる必要はなく、常に前を向いて隣あうようにして暮らしていた。
こうしたある種独特の佇まいから、彼らはしばし身体の側部で結合されていると誤解され、今日でさえ、様々な結合性双生児を描くイラストが身体の側部で結合しているかのように描かれるきっかけを与えている。
まだ幼い頃、二人は生活苦にあえぐ母親を助けようと、様々な仕事に精を出して働いた。特に二人はガチョウの卵を長期的に保存する独自の方法を開発し、船に乗っては卵を売り歩く日々が続いた。そして二人が17歳の頃、二人が器用に川で泳いでいるところを、タイを訪れていたイギリスの船長、アベル・コフィンが目撃し、二人の家を訪れてサイドショービジネスの話を持ちかけた。二人は母親や兄弟を置いていけないとして、コフィンのオファーを断ろうとしたが、母親は二人に世界を見る良い機会だとコフィンへの同行を進めたという。そしてチャンとエンはコフィンらに母親たちの面倒も見ることを約束させ、船に乗ってアメリカへと渡った。
以降、二人はアメリカからイギリス、オランダやドイツまでを興業し、ショーは各地で大きな成功を収めた。しかしやがてコフィンの扱いに不満を感じた二人は、絶縁状を送って独立し、今度は二人でマネージメントとショー出演をこなす生活を始めた。そんな生活が1年ほど続いたころ、今度は当時の最も有名な興行師、P.T.バーナムと知り合って契約を交わし、彼のもとでサイドショーに出演、1839年の引退まで働き続け、大きな財を成した。
そして1844年、二人は姓をバンカーと名乗り始めた。現在、バンカーという名の由来には様々な説が存在するが、おそらくはニューヨーク郊外に暮らしていた、彼らが懇意にしていた富豪の名からつけたと言われている。しかしまた一説には、タイの首都、バンコクの発音が"バンカー"に近いことからそう名付けたという説もある。二人はノースカロライナ州の片田舎に移住し、そこで双子のアデレイドとサラー・アンと別々に恋に落ちた。彼ら4人はやがて恋に落ち、それぞれに結婚することを決めた。
二人はその頃、既に町では尊敬すべき農場主として知られ、町の人々から好かれていてが、いざ結婚となったとき、町の人々の態度は急変した。人々は彼ら結合性双生児が「普通の娘」と結婚することは、出過ぎた行為だとして、二人の結婚に猛烈に反対し、家を壊すなどして脅迫さえしたという。
以降、二人は死を覚悟してまで分離手術を考えたが、彼らの恋人はそれを説得して止めさせた。そして結局、4人は周囲の反対を押し切り、同時に結婚式を挙げたのである。二人は近くにそれぞれ家を建て、タバコ農場を経営した。それから二人は3日ごとに、それぞれ別々に妻の家を往来する日々を続け、計21人の子供をもうけた(チャンに10人、エンに11人。しかしそのうち何人かは幼くして死亡した)。
その後しばらく彼らは安泰の日々を送ったが、南北戦争が終わった頃から、農場の経営に行き詰まり、彼らの生活は再び不安定なものとなった。そこで、二人は意を決し、再び自らサイドショーの見世物となるべく、全米からヨーロッパを含む巡回興行を始めたのである。彼らのサイドショービジネスは再び成功した。しかしその頃から徐々にチャンの身体を病気が蝕みはじめた。彼らは興行中、様々な名医の元を訪れ、分離の可能性について質したという。しかし当時の高名なあらゆる医師も、彼らの分離を行うことを拒否した。それは彼ら二人が結合点において、肝臓を共有していたため、分離はどちらかの死に直結する可能性が高いと分析されたのである。
彼らは旅を終え、ノースカロラインの自宅に戻ったが、チャンの様態は悪化し、ある頃から麻痺が始まった。そして1874年1月17日深夜、チャンは急死した。エンは目を覚ましてチャンが死んでいることに気づき、チャンの奥さん、そして子供たちを呼びつけた。家族が駆けつけたとき、エンは精神的に衰弱しきった様子で、身体の関節が酷く痛むことを訴えたという。そして医師が呼ばれたが、チャンが死亡してからおよそ3時間後、エンも死亡した。
19世紀の医学ならば、二人の分離はさほど難しいものではなかったようにも思える。彼らは生涯、それを実現することはなかったが、しかし、史上最も社会的な成功をおさめた結合双生児として歴史にその名を刻んだ。また彼らの子供たちもその活躍はめざましく、ある子供はその後鉄道会社の社長になり、またある子供は米空軍将軍にまで昇格している。
二人を知るある人物は、「もし彼らが結合性双生児でなかったとしても、同じように社会的に成功していたはずだ」と語っている。
二人を生涯結びつけた ー そして二人が唯一共有していた ー 肝臓は現在でも米フィラデルフィア、ムター・ミュージアムの中で、ホルマリン漬けにされ、二人の石膏像と共に展示されている。