イヴォンネとイヴェッテ・マッカーサー

Mccarther Sisters2-2

イヴォンネ・マッカーサーとイヴェッテ・マッカーサーは1949年5月14日、米ロサンゼルスに生まれた。母親のウィラ・マッカーサーは彼女たちが生まれた時、分離を望み、しばらく彼女たちを病院に入院させたままにしていたという。しかしその後、検査が行われ、彼女らが余りにも多くの組織を共有し、分離することが容易でない事が明らかになると、母親は彼女らを家に連れ帰ることにした。

それから間もなく、母親はサイドショービジネス関係者から、双子を見世物として働かせたいという打診を受けた。当初母親はその要求を拒否し続けたが、やがて病院での治療費を支払うことが困難になると、母親は彼女らを連れ、半年間の期間限定、週三百ドルの報酬契約で、ロイヤル・アメリカン・サーカスへと同行することを決意した。そのお陰で母親は病院の治療費を払い、彼女らに良い環境を作ることが出来たという。

二人が幼い頃、医師は二人が歩けるようになろうとは予想していなかった。また二人は頭頂部で繋がり(垂直型頭蓋結合)、その脳を共有していたため、医師は彼女らが精神的に発育が遅れる可能性が高いことを母親に告げた。しかし、彼女たちは医師のそうした予測が杞憂に過ぎなかった事を自らの力で証明したのである。

二人は平均的な知性を身につけ(しかしイヴェッテの方は非常に内向的な性格であったという)、身体を活発に使って運動したため、母親は二人がいつか首の骨を折るのではないかと心配した程であった。しかしそんな心配をよそに、二人の身体はしっかりとした調和を見せ、走るときでさえ、二人はぴったりとそのリズムを合わせた。

二人はカリフォルニアのサンフェルナンドで育てられたが、幼い頃に過ごしたジョージア州のオーガスタを愛していた。二人はそこではもっぱらショッピングセンターを好み、二人で"個々に"ショッピングを楽しんでいた。

大人になった後、姉妹はゴスペルの歌い手として成功し、全米をツアーしながら、各地の教会を訪れてはその美声を披露した。彼女らは歌手のリンダ・ホプキンスに師事し、リンダは彼女らを娘のように家で育てるだけでなく、二人のツアー日程をオーガナイズするマネージャー役も勤めた。彼女らは普通高校へ通うことは出来なかったが、電話による指導、それが上手くいかないときは直接教師が家庭訪問して、彼女らに辛抱強く勉強を教えた。そうした家庭教育によって、二人は高校卒業証書を手に入れた。そして1987年、二人はついに母親のもとを離れ、二人だけでアパートを借りて生活を始めた。

その後二人はコミュニティーカレッジに入学し、看護学の学位取得を目指した。しかしその後、不幸は突然襲った。1993年1月1日、彼女らが自宅で死亡している姿で発見されたのである。検死によれば、二人が死亡したのは1992年12月15日であった。母親は検死を拒否したが、二人の死因を突き止めるため、検死が行われた結果、心臓麻痺であったことが確認された。原因は姉妹のヘビースモーキングであったと推測されている。

マッカーサー姉妹は生涯を通して仲睦まじく、喧嘩が絶えない他の結合性双生児とはまるで異なる関係であったといわれる。二人はいつも同じ服を着込み、同じときに同じものを食べ、たばこさえ共有した。何よりも興味深いのは、二人はインタビューを受けるとき、二人は共に、決して"We(私たち)"という人称を使わずに、いつも"I(私)"と単一人称を用いていたことである。逆説的だが、二人が独立した個性を持ちながら、二人の関係が美しく調和していたことの証であろう。

姉妹には実父と義父がいた。姉妹の本当の父親ジョン・ジョーンズは、二人が生まれたときの写真には写されていない。そうした事情のために姉妹はしばしばジョーンズの姓で呼ばれることもあった。また彼女らの育ての親となった義父のチャールズ・マッカーサーは1970年に死亡している。

ちなみに姉妹は、写真家のジョエル・ピーター・ウィトキンの作品集にもモデルとして登場している(写真一番上)。