ミリー・マッコイとクリスティーナ・マッコイは1851年7月11日、米ノースカロライナで奴隷の娘として産まれた。彼女らは生後間もなく、両親によってJ.Pスミスなる男に三万ドルで売られ、殿結合対の双子として見世物にされた。二人は"双頭のナイチンゲール"や"合体アフリカ少女"などと宣伝され、人生の初期を過ごした。しかしその後、今度はスミスと敵対していた別の興行師が幼い二人を誘拐し、今度は生まれ故郷から遠く離れた別の場所で、散々二人を見世物として手荒く扱い、やがて二人を英国へと連れ去った。
しばらく後、元の"所有者"であったスミスは二人を連れ戻しに現れ、裁判の後に二人を取り戻した。しかし当時、もはやイングランドでは奴隷制度が廃止されて久しかったため、スミスはもはや以前のように"所有権"を主張することは出来ず、代わりに二人 ー もちろん建前上ではあるが ー を母親モニミアのもとに連れ帰る事にした。そのとき、二人はまだ4歳であった。
その後二人はスミスに連れられてアメリカへ戻ると、今度はスミス夫人によりスパルタ的厳しさのもとで歌と作曲の教育された。しかし結果、彼女らは5カ国語を流暢に喋るようになり、再び興行にでて大金を稼いだ後、当代一の興行師、P.T.バーナムと共に旅に出た。
二人の関係は実にはっきりとしていた。クリスティーナは常に気も力も強く、身体を前に倒してはミリーの身体を軽々と持ち上げた。また二人は常に同じ向き姿勢で立つか、あるいは側臥していたため(殿結合対にしては珍しく、二人はほぼ正確に背中の真後ろで結合していた)二人の"前足(進行方向に対して)"は"後足"よりも不自然に発達し、やがては二人は共にその"後足"を引きずるようにして二本の"前足"だけで歩いていたという。彼女らの姿を描いたパンフレット『双頭の少女の歴史(1890)』には、医学的検査の結果や性格について、詳細に渡って記されている。
1912年10月12日、ミレーは結核を患って死亡し、クリスティーナもまた後を追う形でその17時間後に死亡した。享年61歳、歴史上、最も長生きした結合性双生児としてその名が刻まれている。彼女らの人生はその後、黒人史、そして女性史の一部としても今日、広く研究されている。