オーティス・ジョーダン

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以下は『カエル少年 ― オーティス・ジョーダンの人生』より抜粋されたものである。「寄付をありがとう。冬の間、僕を助けてくれたことに感謝したい。僕は1926年11月2日、ジョージア州のバーンスヴィルに生まれた。僕の身体は生まれた時から硬直していた。今でも自分の身体を動かすことが出来ないが、いつも努力はしている。

僕が生まれたとき、両親はすぐにその症状を悟った。だけど両親は僕のことを他の"普通の"兄弟姉妹たちとまるで分け隔てなく、育ててくれた。僕が第五学級に入るまで、兄貴は毎日僕のことを学校に背負っていってくれた(第五学級の頃には、僕は羊が引っ張ってくれる小さな専用のカートを手に入れた。それで僕は自由に動けるようになった)。僕の学校での成績はよく、かなりの好成績で卒業することが出来た。

僕は自分専用に作った特殊な操作系を持つ車を運転することが出来る。もちろん正規の免許を持っている。だけど、1963年に地元でサーカスに参加するまで、結局まともな仕事に就くことは出来なかった。ある日友人が僕に唇を使ってタバコを巻く芸を教えてくれた。そして僕はそれをサイドショーの興行師に見せたんだ。そしたら彼等はその日からすぐに僕を使ってくれて、今に至るというわけだ。

僕はこの仕事が好きだ。いろいろな国を旅しながら、友達が出来る。だから僕がパフォーマンスするのを楽しむのと同じくらい、見てくれる人が楽しんでくれたらといつも思っている。

僕は神を信じている。そのお陰で、僕は幾多もの困難を乗り越えることが出来たんだ。あなたに、友達に、いつも僕は"諦めるな"と言いたい。僕は常にそうしてきたから。」

オーティスは旺盛なパフォーマーだっただけでなく、また"フリークス達"の権利主張に関する運動でも活躍した。1984年にはオーティスはニューヨークの州フェアに出演することを禁止され、彼は法廷でその権利を求めて戦った(これはフリークス達でなく、外部の人権団体から提案された見世物禁止案の為である。彼等フリークスは出演を求めたが、人権団体がそれを禁止した。しかしそれに反対したフリークス達が、出演の為の裁判を起こすという実に皮肉な顛末だった)。

また1985年には"世界一のノッポ"として喧伝されたロバート・ウィルドウの銅像を彼の地元町に建てようと画策して大きな反発を食らった。しかし最終的に彼はそれを成し遂げたのである。1987年にはオーティスはコニー・アイランドのサイドショーに出演し、その時は"人間タバコ工場"と名を変えた。そして1990年にこの世を去るまで、そこで働き続けた。

現在では、オーティスの手足が本当に動いていたのかどうかは謎である。コニー・アイランドの公式サイトによれば、彼の手足は全く動かず、それ故にタバコを巻く芸を口で行っていたという。しかし上述の通り、彼は車を運転することが出来たといい、また他にも幾つか芸を持っていた。従って、関節が全く動かなかったというのは、間違いなのではないかとも思われる。"硬直"という言葉は曖昧で、彼が一体いかなる症状だったのかは、今は分からない。